I Don't Care About You !

ニヒリズムとナルシズムの狭間で


Entries.

2013/12/24 / 02:50

研修中、新訳で新書化されたユリウス・カエサル「ガリア戦記」を読んでいた。

garia 1 garia 2

考えて見ると、改訂訳だの新訳だのが出るたびに買い求めているような気がするのだが、今回の新書版が一番文章として読みやすく、そして解説も丁寧で非常に好感が持てる。高校生の頃、岩波版の硬い訳文を読み解いていた頃とは隔世の感である。 

よく「ローマ(帝国)はなぜあれほどまでに領土を広げ、それを統治し得たか」という話がされる。その答えに関する大きなヒントが本書の中で既に語られている。性交の最大の要因・・・それは屈服させた/属領化した民族の文化や宗教を根絶やしにすることなく、ローマに対する人質の供出及び税という義務を課す一方で、ある程度の自治権を認めると共にローマ市民としての権利を与え、多民族からの侵攻を受けた場合には救援に応えて軍団を派遣するなどの安全保障を行った事だと思う。

では何故それが出来たのかと考えてみる。最も大きな要因は、当時のローマがキリスト教以前のつまり、一神教ではない多神教の国家であったことだと思う。では一神教と多神教の違いは何処にあるのだろう。それは「規範を置く対象」の違いであろう。一神教において物事の規範を示すのは神、或いは預言者、そして聖職者である。"God bless you." という言葉の通り、祝福は神様が与えてくれるもの、である。故に、その神に帰依しないものは全て「異端」として排除すべき存在とみなされる。ダンテ「神曲」地獄篇において、異教徒はこの世と地獄の中間地点に送られ天国、すなわち神の国に入ることは許されない。クリスチャンでないというだけで、生前にどれだけ徳を積もうが天国には行けないわけだ。乱暴な言い方をすれば、神の名の下に異なるものを排除して上塗りしていくのが一神教だと捉えることもできるのだ。

では、唯一神を信仰しなかったローマ人が規範としたものは何だろう、と考えるに、それは「法」ではないだろうか、と思い至る。戦いに先立って生贄の儀式をやる旨の記述は出て来るが、それは飽くまでも吉兆の占いの域を超えるものではなく、全ての行動規範は神の意志ではなく、人にゆだねられている。実際、戦記の中にもカエサルや軍団がガリア領内の巡回裁判行っている旨の記述があるし、属州の蛮族に対してもローマの支配下に居るうちはローマ市民として扱う場面が随所に記されている。ローマ人と生活を共にすることで緩やかにローマ化することは当然として、それまでの宗教や社会制度を決して根絶やしうにしようとはしないところに法に行動の規範を置くと共にそれを遵守しようとしたローマ人の矜持が伝わってくる。

本書、当然戦記物として読んでも面白いし、当時のガリア(ケルト)人やゲルマニア人の民俗を知る上でも役に立つが、こういう読み方をしても面白いのではないかと思う。まぁ読むたびに新たな発見あるからこそ、2000年余の時を超えて読み継がれる名著になり得たのだろうが、ね。

スポンサーサイト

書籍 / TRACKBACK(0) / COMMENT(0) / PAGETOP

今年最後の3枚になるか・・・ / ホーム / スイッチ、オン!1,2,3!!


コメント:


コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する 


トラックバック:

ホーム