I Don't Care About You !

ニヒリズムとナルシズムの狭間で


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2013/02/18 / 01:22

漸く日本でも公開になった「ジャッジ・ドレッド」を見て来た。

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95年にシルヴェスター・スタローン主演で映画化された「ジャッジ・ドレッド」は、

かつてバート・レイノルズ主演で映画化された「スティック」について原作者のエルモア・レナードが「あれは『スティック』ではない。『バート』と呼ぶべきだね。」とコメントしていたように「ジャッジ・ドレッド」というよりは「シルヴェスター・スタローン」と呼ぶべき内容

であったことから、自分を含め原作を読んでいた人たちからはかなりの不平不満が噴出した失敗作であったのだが、今回の映画化は自分にとって、まさに「完全リブート」と言うべき会心の一撃だった。

では何が「会心の一撃」だったのかという4点。

先ず「ドレッドがヘルメットを脱がない」こと。

原作で、ドレッドは絶対に素顔を晒さない。"The Graveyard Shift" の中で「スリープ・マシン」という機械に入って眠っているコマが出て来るのだが、他のジャッジは皆ヘルメットを脱いでいるのにドレッドだけがヘルメット着用のまま眠っている(笑)つまり「パニッシャー」の髑髏Tシャツや浜田省吾のサングラスと同様、外してはならない絶対条件なのだ。

次に「ドレッドが感情を殆ど出さない」こと。

「パニッシャー」のフランク・キャッスルの行動があくまでも個人的な感情で行う復讐でありその本質が自警団であるのとは真逆に、ドレッドは法の執行官であり、その行動は個人の感情ではなく全て「法の条文」に基づいている。つまりこの作品はドレッドの冷徹な「裁き」を楽しむものであり、其処に「人間性がどーの」「善悪の彼岸がこーの」という批判をする事自体がお門違いなのだ。

またこれは前項とも関連するのだが、顔の大半がヘルメットで隠れているため、表情を読み取ることが不可能である事も、ドレッドが個性ある一人の人間というよりも法体系の中でそれを執行する者の一人という立場を強調している。だからこそキメ台詞の"I am the law."という日常生活ではファンタジー・レベルの言葉がリアリティを持つ。スタローンの「ジャッジ・ドレッド」は其処を読み取ることが出来ず「人間的な」ドレッドを生み出そうとした。だから、失敗したのは自明の理。

そして3つ目、「無駄をそぎ落としたシンプルでスピーディな展開」だったこと。

「最近の映画って2時間越が当たり前で余計な人間描写が多くて鬱陶しい。そういう部分を取り払って90分にしてくれりゃもっといい作品になるのに!」

と思う事が多々ある。その点、この作品は95分。冒頭のモノローグのみで余計な説明一切無し。「当然お前等、原作くらい読んでるよな?」なスタンスで進行する。だからローギヴァー・ガンにはそれを携行するジャッジのDNAが登録されており、他者が使用すると暴発するという説明はなされない。初っ端のカーチェイスからメインとなるスラム化し、凶悪なギャングが跋扈する閉鎖された200階建ての超高層ビル内での死闘まで一気に魅せる。まさに、「シンプル・イズ・ザ・ベスト」な爽快感。

そして最後。

ヒロインであるジャッジ・アンダーソンことカサンドラ・アンダーソン役のオリビア・サールビー。

顔の見えないドレッドと好対照の美形。おまけに強力なテレパシスト。ジャッジになるためのOJTとしてドレッドに同行したのが災いして(笑)とてつもなくタフな「現場仕事」を体験するのだが、当初の若干ビビりな表情が次第に頼もしくなっていくところがミソ。最初は「ルーキー」と呼んでいたドレッドも終盤は「相棒」になり、ラストで「アンダーソン」と初めて名前を呼ぶに至る変化も良い。

というわけで、「パニッシャー・ウォーゾーン」と並んで漸く原作のファンが喜べるレベルに達した「ジャッジ・ドレッド」だが、もし次回があるのなら、ジャッジ・デス&ダーク・ジャッジズ Vs. ドレッド&アンダーソン のエピソードを映像化して欲しいと切に願う。



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