I Don't Care About You !

ニヒリズムとナルシズムの狭間で


Entry.

2015/06/13 / 09:26

最近の移動手段は専ら自転車で、電車に乗る機会が激減した。

電車の中は俺にとって読書空間である。故に、読書量が減るのは致し方ないことなのだが、それでもやはり週末には書店に行き、新刊なり古書なりを買ってくる。環境が変わっても結局、本が無いと退屈なのだろう。

そんなわけで最近の2冊。

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山口猛・著、安藤昇・述 「映画俳優 安藤昇」

安藤組については、数多の書籍、映画等で語りつくされているから、リアルタイム体験世代(!)ではない自分が彼是口を差し挟む必要もないだろう。

自分が安藤昇という人についての話を読み聴いたり、或いはその写真を見る度に感じること。それは一般に言われる「本物のヤクザ者」としてのそれではなく、「死線を越えてきた者」の凄みである。昔、実際に戦争に行った人が「自分はあの戦争で、既に1度死んでいるから。」と語っているのを聞いたことがあるが、特攻隊員として日々、死を目前にした訓練を行い、しかし戦地に行かず終戦を迎えた安藤氏にも同じ気持ちがあったのではないか。

それゆえ、本書の主要部分を占めるインタヴューの受け答えが非常にクール、或いは諦観しているようなトーンになるのだろう。

「役者としての心構えはありますか?」
「別に無いね。」
「役としてこの役が良かったというのはありますか?」
「無いんだな。『無し』でいいよ。」

とこんな感じ。安藤組時代、或いは俳優時代の(とてもじゃないが放送できない)話にしても自分を大きく見せるではなく、自分がやったことについては淡々と語り、聞き手からの所謂「伝聞」「伝説」の部分に関する問いについては「そうだね」「そんなことは言って(して)ないよ」「それについて俺は知らないな」等々、極めて冷徹な受け答えをしているのが非常に印象的である。

そして本書、先述のインタヴューは勿論だが、「安藤昇について」というエッセイが実に良い。インタヴューを補完して余りある内容になっている。加えて巻末に掲載された2015年4月の最新インタヴューもまた、本編と変わらぬ内容となっている。

しかしこの表紙の写真(アラーキー撮影)、本当に素晴らしい。どうすりゃこんな貌になるのだろう、と思う。絶対に喧嘩をしたくない顔、そして目であるのに、人を惹きつける不思議な凄味がある。「女にとても持てた」という話が素直にうなずける。

安藤氏、現在89歳。数多の子分や知人友人が死んでいった時の流れの中で、一度死を覚悟した者が誰よりも長生きであるというのもまた、因果律なのだろう。

もう一冊。

鮫島の貌
大沢在昌「鮫島の貌」

新宿鮫の短編集。文庫になるのを待っていた。

実を言うと大沢在昌作品は「新宿鮫」シリーズと「らんぼう」しか読んだことが無い。しかし本書を読み、改めて多彩な(多芸な)作家だな!と思った。本作は所謂「スピンオフ」であり先ず、「鮫」本編を読んでからというのが基本なのだろうが、それを差し引いても非常に面白い。1作1作が独立した作品として成立している。作品によって「語り部」が変わる手法は本シリーズでも用いられているが、短編においても良い味を出している。自分が好きな作品は「雷鳴」「亡霊」の2編。

加えて本作、漫画の主人公である「こち亀」の両津勘吉、そして「シティ・ハンター」の冴羽涼(・・・でいいの?俺、読んだことないからわからない・・・)と鮫島との「共演」という異色作が2編。これはあくまでも「御遊び」のレベルなのだろうが、改めて「こういう引き出しも持ってるんだな」と驚いた。

しかし最新作「絆回廊」を読み、そして本書を読むと思うわけだよ。「・・・・晶って、もういなくても話の進行になんら影響ないんじゃないの?」って。作者自身、次巻以降の鮫島と晶の関係についてはかなり悩んでいると思うんだけど、ね。どうでしょう???

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2015/06/08 / 00:57

本を読むよりも、漫画を読むほうが遅読だったりする。

というわけで、待ちに待った沙村作品が二冊同時刊行。こいつぁ春から縁起がいいぜ。

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先ず、「ベアゲルター」2巻。

第1巻が出たのがかれこれ2年半前。掲載誌が季刊(現在は隔月刊)なので「まぁ2年くらいは待つだろうな」と思ったら本当にその通りになってしまった。前作ではイマイチ分からなかった話の全体像・・・要するに設定が漸く明らかになりトレーネ(ナミ)が何者なのかが理解できた。しかしまさか、忍と行動を共にするとは思わなかった。

当初は「2巻で終わる」と言われていたが当然、終わるわけもなく次巻へ続くわけだが、それでも終わらないのでは・・・という気がしないでもない。ともあれ、これからの展開が益々楽しみである。しかし相変わらず、作品の端々に小ネタ満載で本当に面白い。忍とトレーネの変装、一見「パイレーツ」のジョニー・デップかと思わせて本当はトニー・アイオミとギーザー・バトラーなんだろ?!というサバス好きな沙村先生らしい絵面である。

因みに本作、3人の雌猫の誰に肩入れするかによって読み方も変わるのだろう。2巻でトレーネが身につけている黒の網タイツ&ハイヒールも滅茶苦茶エロいのだが、自分はやはり忍推しで(笑)忍のキャラクターは「無限」で言えば百琳、「おひっこし」で言えば赤木真由と共通する「一見、身持ちの悪そうでいて、実は結構、純情」(ズべ公設定の忍が処女だったという驚きの展開)という作者の女趣味・・・実際、「無限」では百琳が一番好きだ、と言っていた・・・が垣間見られるのもまた、面白い。趣味と言えば、以前にも書いた銀座「ヴァニラ画廊」における「蹂躙史エピトマイザ」等の展示における「隻眼、隻腕」という欠損美少女の趣味が此処に結実しているのか、という見方もできる。また3人目の雌猫でありチャイナドレスを着た凄腕の殺し屋であるジェ・マオの原型がこの「エピトマイザ」のブックレットに描かれてるのも注目したい。

次。「波よ聞いてくれ」

サーフィン物語でなく(Oi Oi Oi !!!)、ラジオの話である。

癖の強い・・・強すぎる沙村作品にあって「普通の人」におススメできる一冊。一応「ラヴコメ」になるのだろうが、其処此処に小ネタの投下はあるものの至極真っ当な作品。個人的には2巻から「涙のランチョン」みたいな急転直下で滅茶苦茶な展開になって終わることを願ってるのだが、まぁそういう風にはならないだろう。

因みに先月、これまた前出、銀座のヴァニラ画廊で沙村先生のデビュー作、谷崎潤一郎「刺青」の漫画化作品を再度見ることが出来たのだが、改めて引き出しの多く、且つ趣味のディープな人だなと思う。ある意味、タランティーノに非常に近い立ち位置にいるのではないか、と思ったりするわけで・・・

ともあれ、両作品、次巻は何時頃出るのだろうね。

あ、そうそう・・・このブログ、何気に「ベアゲルター 意味」という検索ワードで来てくださる方が多いのだが、表紙の説明によると「ゲルマン法に規定された殺人者若しくはその一族が贖罪として被害者遺族に支払う金」とある。本作の作風を考えれば、そしてそれをハードボイルド風に言えば「血の報酬」(ハメット)という事になるのだろうか。


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2015/04/21 / 22:09

法は、人間が作ったものである。

であるから、その「法」が時流や、それを取り巻く周辺環境・・・社会や国際情勢が変われば、それに合わせて幾らでも変えることができる。「絶対変えさせない!!」等と叫ぶこと自体、民主主義の原則から外れている。では「変えさせない!」「変えることは許されない!」ならどうするんだ?昔みたいに群れ集まって駅や講堂を占拠したり、火炎瓶を投げたりしようってのか?

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日高義樹「アメリカが日本に『昭和憲法』を与えた真相」

読了。

テレビ東京「日高義樹のワシントン・レポート」で知られる日高氏による米国政府の「日本国憲法作成にかかわった当事者」へのインタヴューをもとに構成された力作である。そして反米主義者のくせに「憲法9条護持!」等と叫んでる、現実を見つめたくない連中は絶対に読まないであろう強力な著作である。

日本国憲法については「アメリカから押し付けられたもの」という認識が一般的であろう。しかし近年、左翼を中心として「あれは押し付けられたものではない!日本側も草案の作成に携わっている!!」と叫んでる連中が散見される。しかしそういう連中は本書を10ページも読まぬうち、自殺したくなるだろう。

大まかに述べると日本国憲法作成に関する部分の内容は以下の通り。

1 日本国憲法はすべて、マッカーサーとGHQのガバメント・セクションの手によって作成され、日本政府との間で対等な「協議」等は一切行われていない。

2 日本側が頑強に求めたのは「天皇制の維持」1点のみである。しかし日本政府もアメリカ側の出した「象徴天皇制」という結果は全く予想していなかった。

3 マッカーサーの原案では、日本における全ての軍事力、兵器を放棄させる、というものであった。これはマッカーサー自身がフィリピンで日本軍と戦ったことで、その力を心底、恐れていたからである。そのため、アメリカが全面的に日本の安全を守るということをしてまでも、日本に戦う力を持たせたくなかった。

4 憲法における戦争放棄に関する条文について「自衛の軍事力だけでも持たせてくれ」と頼み込んできたのは日本政府である。

5 マッカーサーを含めたアメリカ政府関係者は、アメリカの占領が終わったら日本国民が自らの手で新たな憲法を制定することは自然な行動であると思っていた。


このなかで第2項は、自分が海兵隊のキャンプ某で最先任上級曹長から聞いた話と見事にリンクする。曰く

「私たちは日本人が持つ潜在能力を今でも恐れている。君は世界中の海兵隊基地の司令部建物の入り口には必ずあれ(硫黄島で国旗を立てようとする米軍兵士のレリーフを指差して)が取り付けられている理由を知っているかね?硫黄島の戦いは海兵隊史上、最も過酷な戦いだった。だから私たちは日本軍の事を絶対に忘れないよう、あのレリーフを掲げている。」

「しかし今の日本にそれだけの力が残っていると本気で考えているのですか?」

「確かに、今は『眠れる獅子』かもしれないがね(笑)しかしいつかその獅子は目を覚ますかもしれない。だから私たちは今でも日本と日本人に大きな関心を持っているんだ。」


アメリカ人は、極東の小国に住まいながら、ロシアや清のような大国に勝利した日本人という民族が理解できなかった。だからこそ戦時中、カリフォルニアのトレーシーに日本人専門の捕虜収容所兼研究施設を建設して徹底的に日本と日本人を研究し、結果的に戦争に勝利した。

先述の通り、マッカーサーは日本の防衛・・・露骨に言えばソ連と中国による共産主義化に対抗するため、安全保障を全面的にアメリカが行う事をしてまで日本に再軍備をさせたくなかった。しかしそれは数十年前の話である。

冒頭で述べたように、世界情勢は大きく変わった。共産主義は崩壊し、かつての宿敵ソビエトの姿は消えた。その代りに中国が台頭しアジア各国は言うに及ばずアフリカにまで勢力拡大を図ってる。その反面、アメリカの国力は低下し最早「世界の警察官」をやっている余裕は無くなってしまった。建設会社が1社でなく数社で受注するJV(ジョイント・ベンチャー)ではないが、今や安全保障もアメリカのみならず周辺各国との協力体制を密にしつつ中国を囲い込まなくてはいけない状況なのである。

では日本は戦後70年、本当に「平和」だったのか?そんなバカなことは無い。本書の中でも記載されている。終戦に伴い、ソビエトのスターリンは日本の国土の割譲を強くアメリカに要求した。極東アジアに共産主義を拡大するためである。マッカーサーはその要求を全面的に否定した。それによりソ連と中国は日本に続々とスパイを送り込み、或いは左翼政党、左翼市民団体に資金提供を行い、内側から日本の共産化を画策した。これはソ連崩壊に伴う情報公開で小田実が代表をつとめる「ベ平連」にKGBから資金が流れていたことが白日の下に曝されたことでも事実だとわかるだろう。

記憶に新しいところでは、東北大震災に伴う津波で松島基地が壊滅した途端、ロシアと中国戦闘機による領空侵犯が一気に増えた。敵機に対するスクランブルをかけることが出来なくなった松島基地に代わり、その役目を果たしたのはアメリカ太平洋艦隊である。だからこそ、旗艦と空母が揃って宮城沖まで進出していたのである。左翼がいう「放射能を恐れ、北上して逃げた」のではない。戦略上の意図があっての機動なのだ。

また2013年、海自の護衛艦が中国海軍のフリゲート艦から火器管制用レーダー波を照射された。これは通常であれば挑発行為の枠を超えた立派な戦闘行為である。

そして現代、日本政府、各省庁、官憲などに日夜大量のサイバー攻撃が行われている。その出所の大半は、中国と朝鮮半島である。現代にあって「戦争」とは単に武力による攻撃のみを意味しないのだ。

何が言いたいかというと、憲法9条で戦争を放棄していても、日本は常に外敵からの脅威にさらされている、という純然たる事実・・・突っ込んだ言い方をすれば9条があっても敵は攻撃してくる、という明確な証拠である。

戦後70年。日本と平和と独立を守って来たのは憲法9条ではない。「アメリカに帰れ!」「戦争反対!」「税金泥棒!」「人殺しの訓練をするな!」という罵倒や揶揄を甘んじて受け、黙々と脅威に対峙してきた自衛隊と在日米軍こそが日本を守る原動力だった。

冒頭に述べたように、日本を取り巻く情勢や周辺環境が変われば、法だって変えるのが然るべき対応である。そして日本という国に住まう日本人であることを誇りに思える「当たり前の国」になるため、我々はそろそろ目を覚まして現実と対峙するときに来ているのではないか。HERESYの曲ではないがまさに "Face Up To It!" である。

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2015/03/25 / 01:02

「貴方は仏教徒ですか?」と尋ねれば大半の日本人は「はい」と答えるだろう。

続いて「宗派は?」と問えば「日蓮宗」「浄土真宗」等といった答えが返ってくることだろう。しかしながら、「では日蓮宗の教義について教えてください」と問われて即答できる人間はまず、いない筈である。

つまり「仏教とは何か」を知らないのに、自分は仏教徒であると思っているわけだ。これは、先祖代々、お寺の世話になっているからというだけの理由に他ならない。とはいえ寺はあくまでも葬儀に纏わる儀式を取り扱うだけで、仏壇に収められているのは御先祖様の位牌であり、拝むのは仏陀(釈尊)でなく、あくまでも「ご先祖様」である。ましてや具体的に「観音菩薩さま、弥勒菩薩さま」と固有名詞を挙げて拝むこともまず、あるまい。

とどのつまり、神も仏も信じちゃいないのだ。だからヴァチカンにおいて日本は未だ「布教国」であり、よく揶揄されるように、「生まれたら神道、結婚はキリスト教、死んだら仏教」になってしまうのだろう。かくいう自分も、そのクチである。尤もまだ独り身なので結婚式を教会でやるか否かはまさに「神」のみぞ知る、だが。

物心ついてから、宗教というものに疑問を感じ続けていた。特に「一神教」と言われる宗教に、だ。本来、人を善導するはずの宗教や神が存在するせいで、この世は争いや憎しみが絶えないのではないかと思いたくなる。SLAYER の歌詞にもある通り「目に見えない物に全幅の信頼を置いて依存している」事に何の疑問も持たないのだろうか、と思う。

では、「神を信じないのであれば、貴方が信じている、或いは心の拠り所にしているものは何なのだ?」と問われたらどう答えるか・・・それは「倫理」であり「科学」であり「知性」である・・・と答える。その方が、見えない神なんかより遥かに現実的だ。

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さて、前置きが長くなったが、此処でダライ・ラマ14世である。当然、名前と顔は知っている。マーティン・スコセッシ監督の映画「クンドゥン」はオールタイムベスト10に入れたいほど好きな映画である・・・が、俺は恥ずかしながらこれまで一度もダライ・ラマ法王の言葉というものを聞いた/読んだことが無い。ちょうど書店で本を物色していたところにこの本の背表紙が目に留まった。いい機会だ、ちょっと読んでみよう。と軽い気持ちで読み始めた「ダライ・ラマとの対話」と題された本書。脳味噌を鷲掴みにされて振り回されるような衝撃を受けた。この年まで、こういう本に出合えなかった自分を、そしてその機会を逸してきた自分を恥じた。

言うまでもなく、法王はチベット仏教における最高位にある人物である。しかしその発言は知的であり、且つユーモアに満ち、示唆に富んでいる。本書で語られているのは宗教/仏教の話ではない。当然、話のモチーフには出てくるが教義を語ることが目的ではない。メインとなっているのは社会学であり哲学であり科学である。であるから、自分が2つ前のパラグラフまでに書いたのと同じ事を宗教というものに対して思っている人達にこそ読んでいただきたい名対談集である。

そして法王からこれだけの話を引き出せたのは、著者であり、対談の相手でもある上田紀行氏の極めて高い知性のなせる業でもある。人は初めて会う他者と話をするとき、「此奴はどの程度まで知識があるだろうか」という事について「探り」を入れながら話題を探していく。その過程で「あ、この人の知識/知性のレベルはこの程度か」と分かればそれ以上の話はしない。しても理解できないからだ。逆にお互いに刺激しあえる話題の共通性、そしてそれを更に高みに押し上げるに必要な知性の相乗効果が生じれば、それは素晴らしい結果となって現れる。本書はまさに、その好例である。

自分は途中で戻り、更に読み返し、付箋を貼り、また前に進むという精読をやっていたのだが、これだけの内容が国会答弁のような「仕込み原稿」など一切ない、生の対談であることは脅威である。幕間やあとがきにも書かれているとおり、法王自身も、このような知的な議論に飢えていたのであろう。読了した後、身体が火照るような熱気が頭と体に残った。

そして本書を読了したのち、法王の動画を彼是見ていたのだが、京都精華大学における講演を見て、俺は愕然としてしまった。法王が中国共産党に対するキツいジョークを飛ばしても誰も笑わないのだ。ジョークをジョークだと理解できない人間ほど哀れな生き物はいない。これまでダライ・ラマ法王は何度も来日し、講演を行い、所謂「高僧」と言われる僧侶達とも対談をしているのだが(その哀れな顛末は本書巻末を参照)上田氏のような知的な論客には不幸にして出会うことが無かったのだろう。

そんなわけで本書、先述の通り「仏教とか宗教なんて興味無いよ」という人にこそ読んでいただきたい名作である。

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2015/02/14 / 21:58

ファム・ファタール・・・運命の女・・・・

なんて以前にも「郵便配達は二度ベルを鳴らす」についての日記で書いたが、今回も「ファム・ファタール」ネタの本である。
文庫化された・・・どころか単行本で出版されていたことすら全く認知していなかった

Engine Yahagi
矢作俊彦「引擎/ENGINE」

読了。

粗筋は・・・高級外車窃盗団を追う築地署の刑事・游二の前に、その女は立ちふさがった。ティファニーのショウウインドーに30カービン弾をぶちこみ、消えた女。無垢な少女の微笑と、妖艶な獣の哄笑を残して…。魔に取り憑かれたかのように、彼は女を追い始める。そして次々に起こる凄惨な殺しと爆破事件。謎が謎を呼び、事態は一気に緊迫の局面へ・・・というもの。

初っ端の謝辞に「恩人T・K氏へ。この私に大藪晴彦を目指しなさいなどと言ってくれたのは、後にも先にも彼だけだから。」
とある通り、大藪晴彦テイスト満載の・・・と書きたいところなのだが、生憎と俺は大藪晴彦の作品を1冊も読んだことがない・・・いや、1冊だけ読んでいるな、「何とかの女豹」とかいうのを。あまりに幼稚で荒唐無稽だったのですぐに部屋の隅に放り投げてしい、内容は全く覚えていないのだが。そんなモノを読むくらいならもう一度、ドン・ペンドルトンの「死刑執行人マック・ボラン・シリーズ」の邦訳を全巻読み直した方が良い。

というわけで本書。全く刑事に見えない主人公にロシア&中国マフィアが絡み、銃弾が飛び交い、ホトケが転がりまくるアクション物。ヒロイン(?)たる「運命の女」が何故、主人公(游二)と「やにわに劣情を催したかのように」ヤリたいと思うのかが全く意味不明だし、その後の展開もイマイチ面白くない。プロットよりも「女」を描きたかったのか・・・と問われても肝心の女のイメージが全くわかない。自分がよくやる「実写化するならどの女優がピッタリだろうか」という問いに対し、答えが浮かんでこない。つまり「ファム・ファタール」であるのに「殺しのテクニックが凄まじい」という点以外、外見上(顔かたち)の印象が恐ろしく薄い。2人の間に「愛情」のようなものがあるのかと問われても「う~ん…どうだろうねえ」としか答えられない。「ムーシカ」の正体は最初に予想した通りだったしな。ひょっとして、作者自身が私生活で「ファム・ファタール」レベルの衝撃的な出会いがあったのだろうか、と勘繰りたくもなる(笑)

そんな中で、後半のカーチェイスの場面は気合が入っている。古い例えで申し訳ないのだが、スティーヴ・マックィーンの名作「ブリット」を彷彿とさせる車と車のせめぎ合いは手に汗握る迫力で楽しめた。

とまぁ、あまり良い事は書いてないが、作者の「二村警部シリーズ」に比べれば登場人物の相関関係等々、至ってシンプルであり、肩ひじ張らずに数時間を「運命の女」との絡みに費やすことができる佳作だと思う。

因みに第2弾があるという噂は・・・・本当なのかね?!






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2015/01/17 / 08:22

気が付けば、1月も既に半ばを過ぎてしまった。

ついこの間まで「メリクリ!」と言っていたのが嘘のようであるが、こっちはそんな過去の話に郷愁を抱く暇もなく、明日の日曜日から来週の日曜日まで地方へ出張である。つまり帰ってくるのは25日。もうこれで1年12か月のうち、1か月が終わってしまうことになる。来月の終わりになるともう、「今年の漢字」とか「流行語大賞」が気になりだすんじゃないか・・・とすら思う。

そんな光陰矢の如き日々の中でも、此方はいつもと変わらずボチボチと生きている。

年末に購入した、
矢作俊彦「フィルムノワール 黒色影片」
読了。「刑事 二村」シリーズ、前作「Wrong Boodbye」以来10年ぶりの復活である。江口寿史の描く表紙絵が、またいい雰囲気を演出している。

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今回の内容は、大物美人女優からの依頼で、撮影はされたものの或る事情から「お蔵入り」になってしまった失われた映画フィルムの探索行。舞台となっているのは横浜、そして香港。21世紀に入ってもう10年以上が経過し、香港も既に中共へ返還されて久しいというのに、未だに赤レンガ倉庫を背景にチンピラのようなバンドが写真を撮ったり、或いは「Gメン75香港スペシャル」で繰り返し登場していた時代のいかがわしい香港の姿が未だに物語の中に息づいている。

それもそのはず。この作品は「日活(無国籍アクション)映画の名場面と名台詞を使い、それらを全部並べて一つの小説を作る。」がコンセプトになっているからだ。

「作品をより深く理解し、楽しむためにある程度以上の知識を要求する作品」というものがある。映画で言えばクエンティン・タランティーノ監督作品がすぐに浮かぶが小説で考えれば、矢作作品はその最右翼に位置付けられるはずである。映画や小説を始めとした広い知識がない人は何を言っているのか全く理解できないであろう比喩表現を始めとして、彼方此方に「罠」が仕掛けられているのは矢作作品の常であるが、今回はそれに加えて日活無国籍アクション映画が主題である。悔しいかな・・・自分はこの手の作品をほとんど見ていない・・・いや、東映の作品と違い日活作品というのは映像ソフトとしても目にする機会が遥かに少なかった、と言うのも原因の一つだろう。それらをリアルタイムで見てきた作者より10年以上若いのだから、仕方あるまい。

であるから本作で登場する「宍戸錠」についても、作者にとっての宍戸錠は「殺し屋・エースのジョー」であるが、俺にとっての宍戸錠は、エドモンド・ハミルトン原作「スターウルフ」ドラマ版における「キャプテン・ジョー」(原作では外人部隊の指揮官ディルロ)なのである。故に本作を読みつつ「あぁ~、これで作者並みに昔の日活映画を見ていれば『此処はこの作品からの引用だ!』と一層、喜びをかみしめながら読むことが出来たであろうことを考えると悔しくて(笑)しかたない。

とは言うものの、そんな「元ネタ」を知らなくとも十二分に楽しめる作品に仕上がっているのでこれまでの矢作作品が好きな人であれば買って損はない。神奈川県警捜査一課を離れ「嘱託」という勤務体系になったことで二村の立ち位置はより、探偵に近づいた。いや警察組織には属していても既に「警察官」では無い(司法警察権を持たない)のだから探偵そのものと言って差し支えない。日本でチャンドラーに憧れる作家は多いのだろうが、チャンドラーに最も近い・・・いや、悪い言い方をすれば「最も模倣が上手く、且つ、それが完全に個性として確立された作家」は矢作俊彦ただひとりなのではないか、と思う。

以前も書いたように、ダシール・ハメットがかつて勤務していたピンカートン探偵社のように、民間の探偵が保安官など、司法警察権を持つ公式の警察官の代行をしていた時代のあるアメリカと、そうでない日本では「私立探偵」という言葉や存在の持つリアリティが全く違うのではないだろうか。それゆえ、日本におけるハードボイルドに関しては「私立探偵」よりも本作や「新宿鮫」のような、警察組織のはぐれ者/一匹狼的変則スタンスの警官の方が、話が進めやすいのは事実だと思う。しかし今回の二村、これまでになく良く動き、派手に暴れる。作品を重ねるごとに探偵自体の個性が次第に透明化していくロス・マクドナルドのリュー・アーチャーとは正反対に、本作でも過剰なまでに存在を誇示し続ける二村(元刑事)・・・さて、次回作があるのなら、どんな形になるのか、今から楽しみである。

加えて、新潮社の小冊子「波」には矢作俊彦&宍戸錠の対談が巻頭に収録されており、此方もおススメである。店頭やウェブ等で見かけたら一冊100円なので是非!

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2014/10/10 / 00:21

「ファム・ファタール」という言葉がある。

「運命の女」という意味のフランス語だが、言葉から連想される官能的な女・・・黒皮のロングコートの下は全裸の杉本彩・・・・みたいな女など映画の中でしかお目にかかることはないだろう。現実世界に目をやれば、青森の公務員に14億を超える金を横領させたチリ人妻アニータ・アルバラードも、尼崎連続殺人死体遺棄事件の被疑者 角田美代子も、連中と動線が交差した男にとっては立派な「ファム・ファタール」だ。

もうかなり前になるが、

カクテル配達
ジェームズ・M・ケイン
「カクテル・ウェイトレス」 「郵便配達は2度ベルを鳴らす」


を読了。

後者はハードボイルド/ミステリ好きであれば知らぬ者はいないであろう名作の新訳版。前者は本邦初訳の遺作。まさか21世紀になって、それも「翻訳ミステリが圧倒的に売れない」という嘆き声が聞こえて久しい昨今にあって「新作」が翻訳されようなどとは夢にも思っていなかったので嬉しい驚きだ。

さてこの2冊。どちらも「ファム・ファタール」的な役回りの女が鍵となっている。「カクテル・・・」では夫に先立たれ(当然、殺しの疑いが掛かっている)子供を1人抱えて怪しげな飲み屋で働く若い未亡人であり、後者は田舎から都会に出てきたはいいが夢破れ、好きなわけでもないギリシャ男と家庭を持ち、安食堂の女将に収まっている「美人ではないが豊満な」女である。

女がいれば当然、言い寄る男もいるわけで前者はとんでもなく金持ちの老人と貧乏だが野心家の若者の2人、後者は幾つも前科のある風来坊・・・と言えば聞こえはいいが、要するに「住所不定無職」の男。そして当然、前者に絡む男2名はあの世に行き、後者では2人で共同してギリシャ野郎をぶっ殺したはいいが、結局、その後の彼是で男が生き残り女があの世へ行く。別に複雑なプロットがあるわけでも驚きのどんでん返しがあるわけでもない、悪い言いかたをすれば、「ありふれた脳足りん女と脳足りん男のチンチンカモカモ」である。知的な要素は、何も無い。

しかしケインの作品が時を超えて読み継がれ、特に「郵便配達」が7回映画化され、6回邦訳が出版されているという事実は何を意味するのだろう。それは「ありふれた日常」の中で「ごくごく普通の人達」がちょっとした運命の悪戯で道を踏み外す怖さ・・・美男美女が出てくる物語でないだけに「生活環境が違っていれば俺も」という思いが一瞬、誰の頭にも浮かぶからだろう。

前出のアニータにしても角田美代子にしても「なんで、あんなブサイクな女/クソババァに引っ掛かって人生滅茶苦茶になるんだ」とTVを見ながら思う。しかし、実際、あの時、あの場所でこいつらに出会っていたら俺も同じ道を歩まないという保証はどこにもない。北九州の「消された一家」事件でもそうだが、まともに考えれば絶対にありえないような成り行きで人は破滅していく。そんな「もしも」を生々しく見せてくれるからこそ、ケインの小説は21世紀の現代でも人の心に棘を刺すのだろう。

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2014/09/30 / 22:51

何事にも「絶対」は無い・・・と言われるが・・・本当だろうか。

自分は外国で暮らしたことが無いから、これはあくまでも自分の想像でしかないのだが、例えばキリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒といった所謂「一神教」を信仰する人たちに「貴方にとって『絶対』なものとは何か」と尋ねたらかなりの確率で「神」という言葉が返ってくるのではないか・・・と思う。果たしてその「神」と呼ばれる存在が自分に幸運を運んでくるか、それとも災厄をもたらすか・・・はあくまでも別問題であるのだろうが。

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中村文則「掏摸」

読了。

全く知らない作家だが、神保町「東京堂書店」3階の「ノワール小説特選コーナー」に平積みされていたこと、そして帯に印刷された「デヴィッド・グディス」の文字に踊らされて購入。失礼ながら、あまり期待はしていなかったのだがこれが存外に面白かった。

話の内容は・・・
東京を仕事場にする天才スリ師。彼のターゲットはわかりやすい裕福者たち。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎―かつて一度だけ、仕事を共にしたことのある、闇社会に生きる男。木崎はある仕事を依頼してきた。「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。もし逃げれば…最近、お前が親しくしている子供を殺す」その瞬間、木崎は彼にとって、絶対的な運命の支配者となった
・・・というもの。

2時間もあれば読めてしまうので長編というよりは中編といったところか。主人公を始めとして、その周りの人物、特に「子供と女」そして元彼女と思しき女の書き込みが甘い。行動の動機がいちいち不明瞭だ。おまけに主人公が一人称では「僕」を使っていながら人に話しかけるときは「俺」になっているのも引っかかる。普通、逆ではないだろうか。あと基本的に俺自身が、一人称を「僕」を書く小説が嫌いだ、ということもあるのだが。

では、そんなマイナス要因を抑えて何が「面白かった」のか。それは、主人公に仕事を依頼する「木崎」という男の存在である。この小説、本当の主人公は天才的掏摸の「僕」ではなく、木崎ではないかとすら思える。セルジオ・コルブッチのカルト・ウェスタン「殺しが静かにやってくる」で本当の主人公は聾唖でありながらモーゼル拳銃の早撃ちを得意とする正義の味方「サイレンス」でなく、罪とがもない街の人たち(モルモン教徒)を、そしてラストシーンで主人公のサイレンスを射殺してしまう酷薄な人種差別主義者「リコ」(クラウス・キンスキー)であるのと同様に。

木崎が体現するもの。それは「絶対悪」である。世の中には「此奴と関わったばかりに俺の人生は台無しだ」と言わしめるような奴がいる。その究極的な存在が木崎である。つまり此奴と動線が交差してしまった奴は否応なしに生殺与奪を握られてしまう。映画化もされたコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」(映画名「ノー・カントリー」)における殺し屋アントン・シュガーのように。

木崎は、「僕」を含めた3人組に仕事を依頼するため初めて顔を合わせた際にこう言う。

「俺に会っちゃったなぁ」

この時点で既に「僕」の運命は決まっていたのだ。仕事に際して「僕」達が隠れ蓑とする「中国人強盗団」について木崎はサラリと言う。

「その強盗団はすでに新宿のある人間達によって殺され、骨すら残っていない」

また後半でも

「・・・は消えたよ。跡形もない。正確に言えば歯だけ残っている。身体は焼いて骨も焼いて白い粉末になった。歯は東京湾のどこかに散らばっているだろう」

利用価値が無くなれば、いとも簡単に「消されて」しまう。

続けて木脇は言う

「失敗したらお前は死ぬ。理不尽と思うだろうが、俺に目をつけられるというのは、そういうことなんだよ。」
「他人の人生を机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似ていると思わんか?」

作者は本書の執筆に際して旧約聖書を読み、「古代の神話における絶対的な存在/運命の下で働く個人」という関係に注目した、と言っている。しかし作品として現出したのは、神というには余りに禍々しい現実味を帯びた世界だった。

木崎と、ほとんど同じ発言をしていた人間がいる。埼玉県で発生した愛犬家連続殺人事件の被疑者・関根元である。

「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。
 それはこの関根元が決めるんだ。俺が今日死ぬと言えば、そいつは死ぬ。
 明日だといえば、明日死ぬ。間違いなく そうなる。
 何しろ、俺は神の伝令を受けて動いているんだ」

「死体がなければただの行方不明だ。証拠があるなら出してみろ。俺に勝てる奴はどこにもいない」

旧約聖書のヤーウェを思い描いて書かれた作品が、現実世界での猟奇殺人事件と重なる。まさに「事実は小説よりも奇なり」である。前に述べた通り、この小説の肝は「絶対悪」の体現者たる木崎の存在であり、それに絡めとられて破滅していく(消えていく)人間の存在である。そういう点に気付けば、ラストで「僕」による起死回生の害逆転劇などあろうはずかない、と予想はつく。アマゾン等のレヴューで低評価をつけている連中は基本的にこの「絶対悪」という概念を全く理解していないのだろう。

そして仮にもし俺が「僕」の立場だったらどうするか。いずれ殺されると分かっているなら躊躇なく海外に高飛びするか、それが出来ないなら最後の場面で自分は死んでも木崎だけは倒す覚悟で臨むだろう。


というわけで本書。まぁ興味のある人は読んでみてくださいな、と。未読の方は併せてコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」もどうぞ。

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2014/09/13 / 01:36

現実社会で起きる事件は、小説のような複雑な「プロット」など無いことが大半である。

例えば、ロス・マクドナルドが描く「家庭の悲劇」や、チャンドラー作品のように複雑で入り組んだ人間関係、事件背景といったものは現実社会ではまず、存在しない。マクベインの「87分署」が面白い理由は、実際に警察が行っている聞き込みによる裏取りや証拠固めといった手法と「シンプルなプロット」にあるのではないか、と思う。そう考えるとハードボイルドの始祖たるダシール・ハメットの作品もプロットに関してはシンプルだったりするわけだ。

そんなわけで、

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ダニエル・フリードマン「もう年はとれない」

読了。

主人公は、かつてメンフィス警察において「ダーティ・ハリー」や「マイク・ハマー」ばりの荒っぽい捜査手法で被疑者を10人以上あの世に送ってきた「伝説の名刑事」バック・シャッツ。ユダヤ人。現在は御年87才(作中で88才になる)の「超」後期高齢者。

話はシャッツが戦友の死を看取りに行った際、かつてナチの収容所で彼らを虐待したナチ野郎・・・戦争で死んだと思われていた憎きナチ野郎が生きている、それも逃走の際に金塊を持ち出したらしい、という話を聞かされ初めは全く乗り気でなかったシャッツだが、戦友は金塊のことをシャッツ以外の人間にも話しており、周辺がにわかにきな臭くなってくる。そこで殺人事件が起こり・・・・というあらすじ。

既に警察を辞めて数十年。認知症の初期症状か時々記憶があやふやになってしまうため常に「記録帳」を持ち歩き、パンチを繰り出そうにもヨボヨボでどうしようもない老齢になりながらも、ラッキーストライクを所構わず吸いまくり、私物の357マグナムを持ち歩き、下品で強烈な皮肉を吐きまくる(イズ・コック・・・ユダヤちんぽ、には笑った)シャッツと、彼を手助けするNY大学に在籍する孫のテキーラが次第に事件の核心に迫っていく姿・・・というか事件の方から彼らに近寄ってくるわけだが・・・はかなり面白い。

実質、関係者数人から話を聞く以外、捜査らしいことは何一つやっちゃいないのだが(当然、もうバッジを持っていないシャッツは「一市民」でしかない)、明らかに違法な且つ強引な手法は、冒頭に書いたハリー・キャラハンやマイク・ハマーが現代に甦って来たかのようで実に楽しい。

ハッキリ言って、誰が被疑者であるかは半分まで読まずとも見えてくるし、クライマックスのシーンも簡単に予想はつく。冒頭に書いた通り、プロットがシンプルなので登場人物を消去法で消していってもいい。しかしそんなことは関係なく、面白い。老齢をもともせず毒を吐きまくるシャッツの姿にネルソン・デミルでなくとも「87歳になったらバック・シャッツのようでありたい」と思うだろう。また、妻であるローズと互いに寄り添うように生きている心温まる描写も花を添えている。

アメリカでは続刊が出ているそうだが、ぜひ日本でも訳出していただきたいものである。

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2014/09/08 / 20:14

ハッキリ言って、村上春樹なんて全く興味がない。

作品自体も、翻訳作品もどうでもいい。しかし、チャンドラー「大いなる眠り」は創元の旧版が出てからかなりの時が経過していることもあり、「通過儀礼として」再読した。自分は、巷で最高傑作とされているらしい「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」より「大いなる眠り」の方が断然好きなのだな、と改めて思った。

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その余波で・・・かどうかは知らないが、約10年ぶりで矢作俊彦「ロング・グッドバイ」を文庫で再読した。

10年ぶり、というのは単行本が出た直後に買って読み、それからきっかり10年目、という意味である。矢作俊彦の作品は「マンハッタン・オプ」のころから好きなのだが、特に「警部・二村」シリーズが好きなのは、横浜、横須賀、鎌倉といった神奈川の細かい情景描写が懐かしいから、という理由が大きい。その土地のことを知っていると、面白さが倍加する作品、というのがある。小説でいえば森見登美彦作品における京都だし、音楽でいえば、クレイジー・ケン・バンドの横浜だったりするのだが、矢作作品もまさにそれ。神奈川住まいが長い人なら「おお!」と思う描写が其処此処に顔を出す。

話の内容は・・・・チャンドラー「長いお別れ」と大筋で同じ。しかし、パクリにならず見事な矢作節になってしまうのが作者の力量か。当然、ビリー・ルゥが生きて戻ってくることが分かって此方も読んでいるのだが、彼自身にどのような過去があり、それが関係者とどう絡むのか、ベトナム戦争、日米関係、在日米軍・・・・基地の街、横須賀だからこそ、この作品は作品として成立しえたのではないだろうか。そういう意味で、すでに最後の米軍施設(軍属向けのアイスクリーム工場)が1982年に返還されて以来、ノースピアを除けばアメリカの影響が消えてしまった横浜より、現在の横須賀のほうが「ハードボイルドの似合う街」なのだと思う・・・もっとも最近は米軍も羽振りが良くないらしく、横須賀はもとより、座間、厚木(大和)、相模原においても以前と比べて街の中で米兵や軍属の姿を見る機会は激減したが。そしてチャンドラー・オマージュでありながら最後でスピレーン(マイク・ハマー)な一言を持ってくるあたり、スピレーン大好きな自分にはうれしいプレゼントだった。

というわけで本作、ある意味、二村たち人間より、主役は「基地の街・横須賀」なのだと思う。エド・マクベインの「87分署シリーズ」が刑事を主役としつつ「本当の主人公は『アイソラ』という街自体である」と言われるのと同様に。読み終えると、きっとヤマトの靴磨き屋を、由の店を探して汐入のショッパーズプラザ(ダイエー)やどぶ板通りを歩いてみたくなるに違いない。当然、BGMはクレイジー・ケン・バンドで。

最後に、おかしいところを何点か。
先ず、二村が発射してしまった拳銃弾をヤマトから闇で仕入れてレンコンに戻し、署に戻す場面。弾底部には「ロット番号」が刻印されており、拳銃や弾薬を所持している職場はこれらを記録して出し入れを管理している筈なので、1発だけ違うロット番号の拳銃弾があればすぐ、撃ったか売ったか持ち出したかバレてしまう。

あと米軍犯罪捜査部の呼称は「NISO(ニソー)」ではなく「NCIS」である。また作中で書かれているように「NISOは米軍犯罪捜査部CIDの傘下組織」ではなく、逆。つまり組織上はNCISの傘下にCIDが含まれる形になっている。

このくらいだろうかね。

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