I Don't Care About You !

ニヒリズムとナルシズムの狭間で


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2015/04/07 / 23:37

昨夜(6日)は浅草で観劇。

昨年の春に上演された、風間寛治さん演出&主演の舞台「ぱぴよん」を再び・・・いや、昨年は2回見てるので三度、か・・・見てきた。 前回の感想は此方。

papilon.jpg

昨年の公演を見た時は「穴を掘る男と穴を埋める女」の関係性はカミュが「シーシュポスの神話」で書いている不条理性の暗喩だと思っていたのだが、今回見て、これは(チベット)仏教で言うところの「バルド」という状態から悟りを得て解脱するか、はたまた再び輪廻転生に絡め取られて同じ道を歩むか、という岐路に立つ魂の物語でもあるのではないか、と思った次第。

しかし、この話のように、幾重にも伏線が張られており、見るたびに新たな発見と感動がある舞台/作品は本当に素晴らしい。本当なら、仕事を休んで何度でも足を運びたいのだが悲しき宮仕えの身ゆえ仕方ない。今回の公演は仕事の予定とプライヴェートでの先約が詰まっていて見に行けないかと半ばあきらめていたので、雲が晴れるように予定が空いて、1回だけでも見に行けたのは幸運だったと感謝したい。

そして、蛾の生命が消える場面の若林美保さんと風間寛治さんの演技は何度見ても涙が溢れてくる熱演で本当に感動する♪何度も書いているが、やはり音楽同様、生で見るべきものは見ておけるうちに生で見ておくべきだな、と改めて思った。

どうもありがとうございました!!

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2014/11/08 / 21:52

現在「浅草リトルシアター」で公演が行われている「レバ刺し☆Hoppi 2発目!~洞窟」という演劇を見てきた。

doukutu.jpg

話の粗筋は・・・・
ある街に都市伝説のように存在する「洞窟」

其処を探検しようと一組の夫婦がインターネットで参加者を募る。集まったのはフリーター、ヤクザ者、そしてかつて夫の愛人だった女の計5名。探検を始めてすぐ5人は複数の鍾乳洞が連接した広大な空間を発見する。其処は快適な気温で食べきれないほどの果実や野菜が獲れ、温泉が湧き、天然の水洗便所まであるというまさに「楽園」だった。しかし其処には白髪の先住民の男がいた。男は5人を歓迎し、仲良くこの空間を共有しようと提案する。何故なら・・・この洞窟は、一度足を踏み入れると出られなくなってしまう場所だったから・・・・

というもの。登場人物はこの5名に加えて洞窟取材にやって来た雑誌記者、そしてもう一人の先住民の男という合計7名。この5名と2名のグループはそれぞれが存在する時系列が異なるらしく、同じ場面でバッティングすることなく話は同時進行していく。

この作品ではいくつかの命題が提示されている。自分が気が付いたのは大きく以下の3点。

1 生活するには何不自由ないが、それ以外は全く何もない世界は本当に幸せであるのか否か

2 「孤独である」ことの意味

3 小規模共同体における人間のエゴ 

先ず最初。

これは現代社会で生きる人間にとってある意味、永遠に悩まされる問題ではなかろうか。何不自由がないのに何もない状態を果たして「幸せ」と呼ぶかどうか・・・はそれぞれの価値観だが人間というのは厄介なもので、一度便利な生活に慣れ親しむと、元に戻れなくなる。たとえば昔は汲み取り式の和式便所が当たり前だったのがいつしか水洗になり、洋式になり、ウォシュレットが装備されるのが当たり前になってしまうと、和式便所を使うよりは洋式便所を探して場所を変える道を選んでしまうのと同じだ。例え、普段のストレスフルな人間関係や山積した仕事から逃れ、南の島に行ったとしても1週間もすれば元の煩雑な文明社会が恋しくなる。

つまりそういう「生きていくのには困らないが何もない場所」というのは「たまに行くからいい」のだ。それが日常になってしまうと、堕落してしまいそうで怖いという思いもある。とどのつまり、現代人は激しく電車や車や人が行き交い、インターネットを含めた高速通信で世界が結ばれ、金やカードがあれば何でも手に入る生活、そしてそこから得られる刺激から逃れることはできないのだろう。

そして2番目。

劇中で、洞窟から出ていこうとする5人に対して先住の男が言う台詞
「孤独には耐えられる。しかし孤独にさせられることは耐えられない。」
には考えさせられてしまった。

「こんなに周りには人がたくさんいるのに私は孤独だ」という言葉があるが、これを聴くたび、面白い概念だな、と思う。自分は一人っ子なので小さい時から一人で居ることに慣れていた。加えて、群れるのが何よりも嫌いな性格もあるのだろうが、これまで「孤独」というものを感じたことが無い。職場関係の人間との飲み会なんて行きたくもない。そんなものに金を使うくらいなら、行きつけの店で一人で喰いたい飯を食ってる方が幸せだし、レストランによくいる4人くらいで群れて仕事の愚痴と男(女)の品定めの話しかできないクソ共なんて、いったい何が楽しくて群れてやがるのだろうと思ってしまう。

誰もが人とのつながりを持ちたがってる・・・それはツイッターやSNSの隆盛を見てもわかる。しかしそのような仮想空間の中では互いに話せても、現実社会において面と向かうと相手の目を見てキチンと話せない、語彙能力が足りない、すぐ話題に行き詰る。とどのつまり、現代においては「人との距離感」が読めなくなってきているのではないか、と思う。適度な距離感を保つことを覚えれば「孤独もまた、楽し」となるのではないか。まぁ、これも個人の価値観の話ではあるのだが。

そして3つめ。

社会の「体制」や人間関係のしがらみ、働いても働いても明るい展望が持てない仕事・・・から逃れ、志を同じくする少数で「コミューン」のような小規模共同体を作り生活を始めたはいいが、結局その中でも「ルール」が生まれ、仕切るものと仕切られる者の二極構造になってしまう。

事あるごとに名前を挙げているオーウェル「動物農場」は共産主義に対する痛烈な皮肉であるばかりでなく、社会と人間がこの世に存在し続ける限り、のありとあらゆる側面に適用できる優れた著書であるが、この場合も同様。口では「この素晴らしい空間を皆で仲良く使いましょう!」と言ってはみたものの時が経てばエゴが出るのは自明の理。そのうち「あいつ(ら)さえ居なければ、此処は俺が独り占めできるのに」という考えが顔を出す。そして理想のために集まった筈のコミュニティはやがて崩壊していく。

とどのつまり、人が人として生きていく限り上記のようなしがらみからは逃げられない。攻殻機動隊のセリフ「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、目も耳も口も閉じて孤独に暮らせ。それも嫌なら・・・」の通りである。そして「自分を変える」部分に気付いた者・・・来た道を後戻りするのではなく、前に進もうと決意した者には「外へ出る道」が示されるという展開もうなづける。

さて、もし貴方はこのような洞窟を見つけた時、其処にとどまろうとするだろうか、果たして出る方法を考えるだろうか・・・・

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2014/05/01 / 00:00

「浅草リトルシアター」で上演されていた、

風間寛治さん演出・主演の舞台「ぱぴよん」

の楽日に御邪魔してきた。

昨夜に引き続いて観るのは2回目なのだが前回とは全く違う観点で観ることができ、且つ考えさせられた。

登場人物は4人。
・穴を掘り続ける男
・男が掘った穴を埋め続ける女
・蛾の化身(女)
・蝶の化身(女)

或る処に、穴を掘り続ける仕事をしている1人の男が居る。其処へ、1人の女が現れる。女は、男が掘った穴を埋め続けるのが仕事だといい、男に対し「貴方が掘らないと私が埋められないから早く掘って欲しい」旨を申し向ける。更に女は、男に「何か面白い話をしてほしい。貴方は私に話すことがある筈だ。」と言い、男は自分の身に起きた奇妙な体験を話し始める。

その奇妙な体験とは・・・ある夜、男が仕事を終えて部屋に戻ってくると開けた窓から1匹の蛾が飛び込んでくる。蛾は大層美しい姿をしていた。やがて部屋に居ついた蛾と男は一緒に暮らし始める。月日が流れ男と蛾の生活が倦怠期になった頃、今度は窓から美しい1羽の蝶が舞い込んできた。そして男と蛾と蝶の三角関係が始まるのだが・・・という話。

話の肝は以下の点

1 穴を掘り続ける、そしてその穴を埋め続ける、という行為の不条理性
2 蛾と蝶は、見てくれは違うが本質においては同一の生き物であること
  (故に蝶も蛾もフランス語で「パピヨン」と呼ばれる)
3 男に蝶の姿は見えるが、蛾から蝶の姿は見えないこと
4 蛾は人語を解し男と会話できるが、蝶は一切言葉を発しないこと
5 蛾と男の関係性について、男が蛾に嘘をついた時、蛾は死んでしまうこと

登場人物である「穴を掘り続ける男」「穴を埋め続ける女」「蛾の化身」「蝶の化身」が何のメタファーなのか・・・勿論、額面通りに受け止めても良いのだけど・・・を考え始めると時間はあっという間に過ぎてしまう。例えばオーウェルの「動物農場」は一般にソ連共産主義体制を痛烈に皮肉ったものだ、と言われるが、状況によっていろいろな読み替えが出来るのと同様、その時に自分が置かれている生活環境や心理状態によって解釈は毎回異なるのではないか、と思う。

話の中で、美しい蝶に心を奪われた男は、蝶との赫赫云々な浮気内容を「嘘はつかない」という約束に基づいて逐一、蛾に話して聞かせる。当然、そんな事を聞かされた蛾の心は次第に傷ついていく。しかし男は蛾が「死ぬほど苦しむ」事は分かっていても「嘘をついて実際に蛾が死んでしまうのとは違う」と詭弁を弄し、蝶との関係を続ける。

人ならざる者が人の心を持つことで、人間として生きるのが果たして幸せなのか・・・という問いは童話「ピノキオ」そして石森章太郎「人造人間キカイダー」に於いてもなされていた。古今亭志ん生師匠の「元犬」も犬が人間になる話を面白おかしく語ったものだ。答は簡単に出せない。心を持った者が置かれた環境、つまり後天的影響によって幸にも不幸にも転じてしまうからだ。此処で賢明な人なら考えるだろう。「そりゃ蝶をすぐに追い出さなかった男が悪いだろ!」と。しかしもし同じ状況に置かれた場合、美しい蝶を追いだして、蛾との平凡な日常を選択できると心に誓って言える男がどれだけいるのだろう、と思う。そんなに人間が賢い生き物であるなら、世の中こんなに捻じれちゃいない。

そして男に対して発せられる「アンタにとって、見えない蝶が現実なのかね、それとも見えている私が現実なのかね」、「蝶は貴方が置いて来たものなのですか。それともこれから求めるものなんですか。」という問いかけが意味するものは何だろう。冒頭のメタファではないが、これを単純に「蝶は一時的な名声や富といった物理的幸福の、そして蛾は精神的幸福の隠喩である」とか「果たせなかった夢と現実の象徴である」と言ってしまうのは簡単だ。しかし、それだけで終わらせてしまうのはいけないような「何か」・・・心に棘が刺さったようになるこの感覚は何なのだ、と思う。

クライマックスの場面、結局、花から花へ移り行く蝶は男のもとを去り、戻って来た蛾は命脈尽きて男の腕の中で息絶える。此処で「二兎を追うもの一兎を得ず」と思うもよし「本当に大切なものは失って初めてわかる」と思うもよし。しかし自分はそんな教条的な事よりも舞台の熱演に心奪われて刹那さと悲しさがドッと押し寄せてしまった。

そしてこの作品で一番興味深かったのが「穴を埋め続ける女」の存在だった。カミュ「シーシュポスの神話」における不条理を体現する存在でありながら、「私は、何も持っていないんです」と語り、持っいないが故に男の心を浄化し、不条理であった筈の行為に条理を見い出させてしまう帰結には唸ってしまった。

つまりこの「埋める女」がやって来たのは偶然ではなく必然だったのではないか。だとすると、どんな意志の介在がこの女を男のもとに送り込んだのだろう。ひょっとしたら蛾も蝶も「神のような何か」の姿だったのではないだろうか・・・等々、帰り道、そして飯を食いながら色々と考え込んでしまった。

そしてこの舞台を素晴らしくしてくれたのは演出・主演の風間さんを始めとして、若林美保さん、朱魅(卯月朱美)さん、広田さくらさん、皆さんの熱演で、特に若林美保さんのキレのいいセリフ回しには痺れてしまった。「あんた、最後の最後で嘘ついたねぇ」と言って事切れる場面は今夜見たら絶対に泣いてしまいそうだったので半眼になって見ていた。なんとか涙が落ちるのは止めましたが鼻水は出た・・・

観終わって思ったのが「あともう1回、見ておけばよかった」という事。また将来、再演されたらとても嬉しいのだけど。しかし上演時間70分の間にこれだけのことを考えさせられた作品というのはこれまで稀である。ただ「面白かった!」で終わる作品も大好きだが、やはり何某かの余韻が続く作品は必ず心に残る。

あと昨夜、今夜と物販で朱魅(卯月朱美)さんにサインをしていただきまして・・・とても良い気持ちで帰途に就くことが出来た。以前の「艶絵巻」公演で三回、舞台を見せて頂き「綺麗な方だなぁ」と思っていたので感謝感激雨霰。やはり音楽のライヴ同様、生で見る舞台も良いなぁ、と改めて思った次第。

素晴らしい舞台を、どうもありがとうございました。

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